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2022/6/13 順三死す 6/9に秦野市の露木順三さんが急逝した。 2008年に秦野に町田市から引っ越して、周りに友達と呼べる人もいなかった。町田では、いつも誰かが遊びに来てたりしてたから、余計に寂しかった。そして、この町のアーティスト達がやっているアトリエ開放展「丹沢アートフェスティヴァル」に参加して、自宅を10日間ほど開放してみた。開放する時間も終わった頃「今からいいですか?」と電話があった。それが、露木順三だった。市会議員で、プロパンの会社を経営、ギャラリーもやっていることを知っていたので、「横柄なヤツだな」って思い込んで、僕は仕事場に込もって、サチコに対応を任せた。 彼がやってきて、しばらくすると会場にしてある部屋から、笑い声が聞こえてきて、楽しそうに歓談している声。「なんだ?」僕が入って行くと、人懐こい顔で僕に笑いかけて、「露木です」僕は、つい笑ってしまい、「小嶋です。よろしく」って。それから、何かある度に会って、ご飯を食べたり、飲みに行ったり、仲良くしてもらった。昼頃にやってきて、僕の作った、うどんやそばも一緒に食べた。そして、食べ方も精力的だった。我が家主催のたこ焼きパーティーや、そば名人を呼んでのそばパーティーも、どんな時でも来て食べた。もうお腹いっぱいだ!ってぐったりしていても、「もう一皿」って言い出す。「こいつの胃は、どうなってるんだ?」って関心する一方だった。近所の焼肉屋に誘われた時も、「食べて食べて」って言いながら、僕が焼いてる肉まで手を伸ばし、まだ生に近い肉をパクパク食べる。 そして、彼が経営する「丹沢美術館」でも何回か2人展をやらせてもらった。美術館と名前は大きいけど、小さなビルの二階にある、靴を脱いで上がる小さなギャラリー。それでも近隣のアーティスト達が集まってくる。作品は、たいして売れない。順三が、いつも終わり頃にこれと、これってポケットマネーで数点買ってくれた。高島屋の展示会や、猫町での展示会にもよく来てくれた。帰りに一杯やって帰った。いつもニコニコして、ガバガバ飲んで、パクパク食べて、僕たちは、みんな幸せだった。 僕がこんなにこの秦野の町の人たちと密接な関係になったのは、やはり3.11があったからだと思う。これからの生き方をみんな考えたんじゃないかな?僕は、ネコマチッタを作ったり、丹沢未来プロジェクトを立ち上げ、気づきの時展を始めた。そして、いつもその後ろで、見守ってくれた順三がいた。順三は、ただ食べるだけじゃなく、仕事に就けない生活に困っている人や、売れないアーティストの側にやってきて、手を差し伸べる。彼に助けられた人は、どれだけいたんだろう。 何回か、議会も観にいった。そこでの順三は、市民のために闘う男だった。 鉄人・齋藤シモンが亡くなって、企画した遺作展も無事終わり、その頃の僕は、もう自分の仕事を見失っていたかもしれない。息子に「お父さんのやることは、作品を創ることじゃない?」って気付かされ、僕は、この町を離れることを決めた。今住んでいるこの村に移住することが決まったある日、順三が「秦野にいてくれないか?いい物件があって、安いから」って案内された。第二東名が通る近くの場所。「お金なら銀行を紹介するし」そんな問題じゃないいだ。僕は、この町を出た。 僕には、順三とのいい思い出がありすぎる。いろんなところに順三のボロ車の助手席に乗って行った。一つ一つの思い出が、僕には宝物だ。 先月の秦野の「ぎゃらりーぜん」での2人展にも来てくれた。大腸ガンになったとは、聞いていた。今やってる療法がいいとも言っていた。少し安心した矢先、9日朝、訃報を知らせる電話が鳴った。 12日お通夜に車を飛ばして、お別れをしてきた。お通夜のあと、アーティスト達だけで、いつものレストランで献杯。ほんとに沢山の人たちに愛され、慕われ、各人に寄り添っていたことがよくわかった。 「まだまだ、やることが一杯あるんだよ」最後に会った時にポツリと言った。 写真は2020年に高島屋新宿店に来てくれて、「露木順三ネコを作ってくれ」って注文してくれた作品。大好きなコーヒー片手に、書類と六法全書を持つ、優しい愛する順三ネコだ。 感謝 |
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