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2014/7/15

「齋藤史門展」

久々の日記だ。齋藤史門が5月の僕の展覧会に来てくれた。げっそり痩せて、「病院に行った方がいいんじゃない?」ってことになった。そして、結果が、5/24に出て、「胃がんの末期」僕は、横浜燗屋が終わって、とにかく齋藤史門の山の中にある家に駆けつけた。今自分が抱えている仕事を誰か手伝ってくれる人を紹介してくれないだろうか?と相談された。

沖縄のホテルの仕事。別に齊藤史門じゃなきゃならない仕事でもないが、10年以上ぶりに来た仕事だという。とにかく、納期が迫っている。こんな仕事を任せられるのは、世界中どこを探しても渡辺さんしかいない。渡辺さんを連れて史門さんの家に急ぐ。お金は払えるの?と聞くと、「ない。前金で貰ったが、国保に何年分かの未払い分で引き落とされてしまった」という。「私が働いて必ず返します」と奥さんはいう。江戸時代の話?渡辺さんも「参ったなあ〜」と言いながらも、「やるしかないでしょ。伸さんの頼みだもんな」帰りの車の中。ポツリと言った。ホントにいい人なのだ。

それから、渡辺工芸に史門さんと奥さんが車で行き、5分指示して、10分休む。そして、また5分立って指示する形で仕事は進んだ。その間、僕としては、渡辺さんに迷惑は掛けられないという気持ちと、これから、史門さんに掛かる医療費や、生活費をなんとか、少しでも作ることを考えた。「じゃあ〜アトリエにある小品を集めて展覧会をやろうか」秦野の2カ所のギャラリーでやることに決定した。100万くらいは作ってあげたいという思いだった。それでも、彼は「僕が展覧会をやるなら、新作でやらなければならない。君達が主催するんだから、前に何か入れてくれよ」内心、このオヤジは、痩せても枯れても「よう言うな〜」と思いながら、まあ〜作家としては立派だなと思った。横浜燗屋にいる時に「シモンズベッド」って広告がそこら中に貼ってあったので、「シモンズクラブ」って名付けた。ハガキやチラシの齋藤史門展の前には、必ずシモンズクラブ主催って入れた。

齋藤史門と言えば、バブルの前は、野外彫刻の分野では数々の功績を残している。その当時は、ホントに凄かったらしい。きっと僕は最後の史門の友達なのかもしれない。そして、僕は彼のそういうことも、今は貧乏していることも、何も知らないで、ただ転がるように、渡辺さんを紹介したことから、始まってしまった。それでも、身体がきつい中、ニコッとしながら、「やあ〜悪いね」って言って、一生懸命に仕事に向かう姿には、心打たれた。

それから、展覧会の準備に入った。アトリエにところ狭しと放り投げられたような作品を見ると、本当に展覧会など出来るのだろうか?って途方に暮れた。3.11以降に東北の震災瓦礫作品を発表しながら、鋼鉄のグニャリと曲がってしまった光景を見て、野外彫刻で大きな鉄の作品を作ってきた史門さんにとって、「本当にこれでいいのか?」って自分に問いかけていたのかも知れない。

車の隣に横たわるように座り、「俺で良かったのかい?昔からの友達とかもっといたんじゃないの?」って聞いたことがる。「そんなことはない。嬉しいよ。」って言う。そんな中、6月19日の明け方、奥さんから「吐血した」って電話。一昨日まで仕事していたのに・・・病院に駆けつけると、目を開けて「ありがとう。後をよろしく」って僕の手を握り返してくれた。その力の強さにビックリしたし、まだそう簡単には死なないって思った。しかし、20日未明にまた電話。史門さんが、旅立ったことを知った。展覧会を一緒に始められるって思っていたが、追悼展になってしまった。

翌々日には、アトリエで作品の磨きやらなにやらで、駆けつけてくれる作家連中、全体の取りまとめ、沖縄の仕事の手配、途中、「何で?」って、天国にいる史門さんに向かって「おい、ここまでやらすのかよ」って文句を何度言ったかわからない。こっちはおまけに片目が、ウィルスに感染して眼帯で仕事も出来ない状態。まあ〜これも、何かの縁なんだろうな。次から次に起きる問題を振り払いながら、やっと明日が展覧会の初日。オープニングをお別れ会に変えてやるわけだが、まあ〜ホントに沢山の人が、応援に来て、カンパ、協賛金、史門さんという人の大きさをつくづくと感じた。

おこがましい話だが、史門さんが、病気になった時に「最後まで、齋藤史門というアーティストとして、死なせてやりたい」って思った。それは、自分のおごりだって、今ではつくづく思う。「齋藤史門は、齋藤史門だけじゃなく、一人一人の中に齋藤史門がいて、一人一人が齋藤史門なんだ」って思った。それは、史門さんのためでもなく、まして残された遺族のためでもない。自分の中にいる齋藤史門という自分のためにやっていたんだなって今思うのだ。

この辺りの昔話で、秦野から、大磯に抜ける道をオオカミ道と畏れられ、行き来がなく閉ざされていたと聞いたことがある。しかし、大磯の人達、秦野の人達、足柄の人達、本当にその垣根を超えて、史門さんのことで一つになれたことを、本当に感謝したいと思う。そして、それは、隣の町の人、隣人、友人、仲間、親子、兄妹、夫婦、自分の周りにいるすべての人達が人の死を悼み、支え合うことを教えてくれたのだと思う。大げさなことではない。今、一番この世界で欠けている大切なことなのだ。そして、それが出来たのは、齋藤史門がそれだけ大きな人だったということに尽きる。

今回のことで沢山の人に感謝を述べたい。齋藤史門には、まずは一番に感謝を述べたいと思っている。

 




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